『真実の行方』 ~法廷は“誰”の為にあるのだろう?~
誰にでも隠したい顔がある・・・
真実の行方
監督 グレゴリー・ホブリット
脚本 スティーヴ・シェイガン
アン・ビダーマン
出演 リチャード・ギア
ローラ・リニー
エドワード・ノートン
終盤の展開が凄い!!という口コミを聞く映画は多々ありますが、
本作『真実の行方』以上の衝撃的展開を私は知りません。
主な内容は敏腕弁護士マーティン・ヴェイルが地元の大司教殺害の容疑で捕まった青年アーロンを弁護していく、という法廷もの。
主人公マーティンは根っからの正義漢…という訳でもなく、腕は一流だが少々サメた弁護士として登場します。
そんな彼が孤児院育ちで金銭とは縁のなさそうなアーロン青年を突然弁護する気になった理由というのが、「人間の根底にあるものが性善説であると証明したい」という、長年見てきた「悪」によって構成された自分の中の人間観を変えたい、ベテラン弁護士ならではの実に高貴な動悸からであり、
それを信念に、多くの難関相手に奮闘する彼の姿は実に魅力にあふれています。
大抵法廷ものといえば、ある不利な証拠に対して、新たな証拠や証言を用いて勝訴するというのが定番ですが、本作の場合、その「不利な証拠」があまりにも多く、そして強すぎるものばかりなのです。ですから中盤に行く頃には観客の心中を占めているのは「どうなるんだ!?」という緊張よりも「もう無理だろ…」という諦めになっているという事態に。
クライマックス、そんな文字通り無理難題を、苦悩を繰り返しながマーティンはあらゆる発想で勝訴に持って行こうします。
観客はそんな凄まじい法廷バトルに感嘆と称賛の声をもらすことでしょう。
中には弁護士もいいな、と将来の選択肢に考えようと語る人もでてくるかもしれません。そう…